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器の向こう側、海の向こう側。

伝統のその先を生み出す場所

エクレレ株式会社

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伝統のその先を生み出す場所

喧騒と静寂の間で先生を待つ

右手に国際通り、左手に静かな空間、その間にあるガラスに挟まれた風除室で私は先生を待っている。

私は那覇市に住む高校3年生で4月から広島の大学に入学することが決まった。
那覇市に住むと言ってもこの3年間はほとんど那覇にはいなかった、というのも父と母に送り出され、中学卒業と同時に海を渡り北米の高校で3年間ハイスクールに通っていたからだ。

中学校まで私は家族に囲まれ、沖縄の風土の中で暖かく育った、小学生の頃から琉球舞踊に通い、その側から見ると分かりづらいゆっくりとした舞踊の奥行きに触れ、中学3年生まで通い続けた。

父は私たち子供により大きく羽ばたいて欲しいという想いを持っており、3人目でただ一人の娘である私に対してもありがたいことに海外思考を持たせてくれた。一方で私に沖縄の方言で「結ぶ」という意味の名前をつけ、琉球舞踊を習わせたのは、羽ばたいて欲しいと思う一方で、生まれてきた場所と文化を愛して欲しいという親心の表れだと思う。

3年前はコロナ禍だった、コロナの影響で海外渡航が制限され、私の留学も3ヶ月延びた、その間県内の高校に通うことになった。またその前の年は、毎年秋に新聞社の主催で開催されるコンクール(伝統芸能選考会)も開催されなかった。

琉球舞踊という習い事は中学3年生までが一つの区切りとなる。理由としては高校進学に伴う生活スタイルの変化が大きい、自分の生まれた地元に学校の後通うのを小学生から長い人で9年間も続けるのに対して、高校はその舞踊の稽古場から離れていることも多く、また、離島出身者が沖縄本島の高校に一人暮らしや寮に住みながら通うケースもあり、それまで続けていた稽古が続けられなくなるケースが多い。(もちろん高校生活を謳歌するために舞踊をやめるケースも含め)

それ故に琉球舞踊の多くの生徒にとっては受験に突入する前の最後のコンクールが実質的に最後の晴れ舞台になっている。

私の場合は高校を海外でということが決まっていたため、物理的にも稽古場へ通うことは難しい状況があり、例に漏れず中学3年のコンクールで琉球舞踊を実質引退することが決まっていた。そのため、最後のコンクールに対しての想いは強く、幼少期からの成果を表現すべく、受験勉強の合間を縫って、先生と共に稽古にコンクールに2年前から照準を合わせて励んでいた。
先生はその想いを理解して、目標であるコンクールでの新人賞を目指し、私を厳しく指導してくれた。私にとってはこれまでの集大成だと思っていた。先生にとっては我が子のように接してくれた私との最後の思い出、という側面があったのだと思う。

そのためコロナによってコンクールの開催がなくなったと知った時の喪失感は大きかった、先生は私に「どこに行っても身体さえあれば琉舞はできる」と言っていたけれど、コンクールがなくなったことが決まった日に先生が母に対して私とコンクールへ向けた練習が急遽できなくなったことが自身にとって本当に寂いと電話口で話していたのを知っている。

ともあれ私は受験勉強や渡航準備、英会話の練習といった、人生を前に進めるためにやるべきことが山積していて、それと同時に仲の良い友達や好きな男子との中学校最後の思い出作りに励んだりと、高校受験生特有の忙しさの中で、コンクール中止の喪失感は、あっという間に喉元を通り抜けていったことを考えると、コンクールがなくなったことを本当に悲しんでいたのは私よりも先生の方だったのだろう。

先生は私にとっては母というよりも歳の離れた姉や、憧れの先輩に近い、先生は琉球舞踊の講師としては比較的若く、80代の大御所の先生が何人もいる琉球舞踊の世界の中では若輩者にあたると思う。私が琉球舞踊を続けてられたのも、年配の先生が持つ昔ながらの厳しさと、怒られる機会の少ない令和生まれの私の間に立ち、愛を持って妹のように育ててくれたからだ。

当時コロナ禍がいつまで続くかわからない中で、渡航予定はどんどん延長され、私はいったん近くの高校に入学し、コロナが開けるのを待つことになった。私にとっては一時的な入学でいつまでいるかわからない状態は、何かフワフワとした感覚で、せっかく積み上げた留学への意志や覚悟が揺らいでしまいそうで不安だったのを覚えている。

そんな中、先生は、先生の先生つまりは現在の琉球舞踊の大御所に当たる師範達を集めて私の送別会を開催することを母に提案してくれた、母はもちろんと感謝すると共に、自分にも手伝えることがあればしますと言っていたが、少しずつコロナの波は治りつつあったとはいえ、高齢の師範たちを一箇所に集めるというのはすごく大変なことだったと思う。

先生は「沖縄の心を琉球舞踊を通じて学んできた私が、国外でしっかりと沖縄の文化を広めていくためには、大変な時期ではあるものの琉球舞踊会全体で応援するべきだと思う」ということを唱え、親戚と先生、師範達だけの私の送別会を行い、その場はコロナ感染に留意し、宴席を設けるというようなことはせず、お互いの距離に配慮した上で、私がみんなの前で演舞を行い、それに対して師範達のコメントをもらうと共に、留学への激昂と変えてほしいと頭を下げて回った。

長引いたコロナによる自粛期間において、自分や周りの健康に対してより敏感にならざるを得ない県内の高齢者達は自粛に対して熱心で保守的な行動をしていたものの、元来80歳を超えても現役の師範、あるいは時には演舞者として踊るような人たちのため、先生の唱えた「若い人を応援」「琉球の心の海外伝承」「送別会はコンクール方式」という3つのキーワードは枕ことばに「コロナへ配慮」という文字を加えるだけで自分たちが久しぶりに集まり、前向きな気持ちになれる場として格好の言い訳になった。

先生は、各師範達の了承をとりつけると、夏休み前にプチコンクール(送迎会)の会場となる公民館を抑え、フワフワとした気持ちになっている私に鞭を入れるかの如く再び日常に稽古を組み込んだ、私も私で通常たくさんの人に対して行うコンクールが私一人のためだけに行われるとあって流石に背筋が伸び、緊張感の中で再び舞に力を込める事となる。
先生との最後の稽古期間の中で、琉球舞踊の所作一つ一つに気を配り、意味を考え、あるいは無心で身体を動かしていたが、先生に支えられているという精神的環境の中で、私がこれから海を渡って自分自身を自分自身で成長していかないといけない。という事を言葉にならないコミュニケーションとして授かったと思っている。

提供される所作

時はすぎて今私は国際通りにある琉球料理のお店の風除室にいる、私の家から徒歩5分の場所にできたこのお店は本格的な琉球料理を提供しながらも、ランチのみの営業で且つ3500円の御前1メニューのみで営業している。オーナーの想いとして、沖縄の文化の本質的な部分の抽出とそれを感じるための空間づくりを行った事を、先日父と行った時に伺った。
店内はカウンターのみの構成で(実は奥に秘密の個室が1つだけあるらしい)同伴者とは横並びに座るスタイルとなっており、外からの日光に頼った少し薄暗い店内に自分の器だけを照らす照明が設置されている。沖縄っぽい雰囲気を作る事なく、沖縄の料理の良さだけに集中しやすいようにという配慮にあるという。
  

父は母と近所を毎日散歩するコースの中にあったこのお店が、工事中の時から気になっていた、工事中の店頭のチラシにオープン予定日が書かれており、オープン日が近づくにつれそのチラシの情報は追加され、そのお店が3500円の1メニューでランチのみの琉球料理店ということがわかっていった。あまり聞かないそのお店のコンセプトに惹きつけられたのか、父はオープン日に母と私を引き連れて向かった店先で、先ほどのような回答を引き出すためのいくつかの質問を、店頭で案内をしていたスーツにTシャツの(恐らく私の先生と同じくらいの歳の)オーナーに矢継ぎはやに投げかけ、オーナーが「本当の沖縄料理はもっと世界のみんなに美味しいと思ってもらえると思うんですよね。」と言ったところで「よし、今日はここで食べよう!」という掛け声と共に母と私を連れて入っていった。母と私は「最初からここで食べるつもりだったのにね」とヒソヒソ笑いながらも、一切の装飾を省いた、沖縄料理店とは思えない店内と、料理を提供してくれる方の丁寧な配膳により、ある種の緊張感を持ってご飯を食べた。

イナムドゥチ(白味噌の味噌汁)やジューシー(炊き込みご飯)、クーブイリチー(昆布の炒め物)、ラフテー(豚の角煮)など沖縄県民にとっては親しみやすい料理ばかりだったが、非常に時間をかけて仕込んで作られているのが私にもわかり、すごく美味しく、何度も母と目を見合わせた。御前を平らげて最後に残しておいた、やちむん(沖縄方言で焼物の陶器)の小鉢に入ったジーマミー豆腐を口に入れたあと、名残惜しさと共に、手に取った器を初めて美しいと思った。

私たちが会計を済ませて店舗の外に出ると、バックヤードからオーナーが来店の感謝を伝えに慌てて追いかけてきた、なんでも自分たちが招待した人以外で、純粋にお客さんになったのは私たちが初めてだったらしい。
私たちは料理がおいしかった事を伝え、父は配膳人の所作が美しかったと、母は嫁いでから食べた沖縄料理の中で一番手が混んでいると感じたこと、私は器が美しかった事を伝えた。
オーナーは一つ一つに感謝を述べるとともに、実は配膳の動きに琉球舞踊の考え方を取り入れているということ、メニューが少ない分仕込みは県内で一番手間をかけていること、を教えてくれた。私は琉球舞踊の動きを取り入れたという件に驚きを感じるとともに、母とヒソヒソ話をしてちゃんと見ていなかったことに後悔した。
最後にオーナーは私の様な若い人が人生の節目節目でゆっくりと誰かと同じ方向を向いて静かに時間を過ごすためのお店を作りたかったという事を伝え、父が、私がまさに大学受験を終えもうすぐ県外に旅立つ事を伝えると、私にぜひまた来てくださいねと言ってくれた。

静寂の先を見つめて

翌週私は勇気を出して、お店に電話をして二人分の予約をお願いした。
来月には県外にまた旅立つ前に先生を二人であのお店に行きたいと思った私は、父にその旨を伝え、自分の手持ちでは足りず、飲食代金が必要になることを伝えた。父は二つ返事で了承し、母はキッチンからグーサインを出してくれた。
母は先生が一緒にランチができる日程をLINEで聞てくれ、私はお店の予約とともに、その日に合わせて元々行くつもりだった美容院の予約をした。

今私は、午前中に美容師さんに整えてもらった髪と、自分があの時のプチコンクール(送別会)で使った琉装(琉球舞踊の衣装の着物)を着てお店の風除室で先生を待っている。先生と同じ方向で座り、配膳の方の所作を確認し、やちむんの器を見ながらその先にある将来の事、海の向こうの留学の思い出、そして何よりもあの時の感謝を伝えるつもりだ。少し背筋を伸ばして座り箸を丁寧に運びながら。

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